暁の想い
…なんだか波の音が聞こえる。
榎木津はその音に誘われるように、うっすらと目を開け、周囲を見た。
いつもの自分の寝室−。かすかに聞こえる「波の音」は、どうやら点け放したまま寝てしまったラジオの、放送時間が終わった後の「ザー」という発信音であった。窓の外がうっすらと明るくなってきている。今は何時なのだろう…と思いながら傍らを見ると、関口が寝台の本当に端で、貧相な体を更に小さく折りたたむように、背中を丸めて眠っている。
その裸の背中を愛しい思いで見つめながら、彼を起こさぬように榎木津はラジオを消すべく寝台から降りようとした。と、その軋む振動で関口が寝返りをうち、目覚めそうになるものだから、榎木津はもう一度ゆっくりともといた場所に体を沈めた。
関口は一瞬目を閉じたまま眉を寄せたが、また眠りの世界に戻ったようだ。その顔を見ながら榎木津は、何度となく繰り返された昨夜のやりとりを思い出していた。
行為が済んで、そのまま抱き合って眠るのが榎木津は好きだ。ぐったりしながらも満ち足りたような顔をした関口が自分の腕の中でそのまま眠りについていくのを見つめながら自分も眠るのが好きなのだが、関口は極力榎木津の所謂「腕枕」を嫌がるのだ。
「なんだ。そんなに寝心地が悪いのか?」榎木津の声に憮然とした様子がどうしても表われてしまう。
「そうじゃなくて…重いだろう?」関口は小さな声でいつもそう言うと、榎木津の腕の中から這い出て寝台の端の彼の「指定席」で丸くなる。
「重いものか」無理強いするのも何なので、榎木津はそう、もてあましてしまった自分の腕を頭の下で組みながら悪態をつく。
「関の頭がそんなに重いわけないだろう。たいして中身もつまっていないくせに」
「中身の重さは一緒だよ。違うのは皺の数だろう?」もっと怒るかと思ったのにこう冷静に返されてしまうと、榎木津はますます関口に絡めなくなって、まあいいさ、と昨夜も彼に背を向けてしまったのだったが−。
榎木津は、まだ目覚めぬ関口の背に、優しくそっと腕を廻した。
関口の気持ちはわからないでもない。腕枕で寝てしまうと、きっと翌朝榎木津の腕が辛くなるのではないかという、いらぬ気遣いをしているのだ。
おそらく、自分の体験から−と、ここまで思って、榎木津は苦笑してしまった。女性−というか、具体的には雪絵だが−に己の肩口を貸している関口を不意に想像して、なんとも言えない嫉妬を覚えてしまっている自分に気付いたからだ。
何にしろ、関口は自分に甘えきってはくれない。自立した大人の男であるからそれはもしかしたら当然のことなのかもしれないが、榎木津にはそれがどうにも…「やるせない」としか言えないような思いがする。
それは、自分に対してはそういう「大人の男」でありながら、関口は何かあると必ず中禅寺を訪れるからでもあり−それがどうにも榎木津には、彼が中禅寺には「甘えて」いるように見えてしまうからである。関口は決して自分のところには泣きには来ない。何かあったのかな、と感じることはあるが、それを決して自分に打ち明けることはしない。それでも自分の腕の中で、そういった彼にとって「辛いこと」を忘れてまどろむ関口を見ていると、少しは自分も彼の苦しみを軽くしてやることができたのかもしれない、と思えるときもないではないが、結局のところ、関口が最後に頼り、何かを吐き出しにいくのは、中禅寺のところのような気がする。
…何故なのだろう。関口は確かに自分を想っているという自信はある。自分も誰にも負けないほど彼を愛し、大切に思ってている。それがどうしてお互いに通じないのか−。いや、通じているのか…。
榎木津はもう一度苦笑した。関口のことを考えると、本当に時間を忘れ次々と思考が方々へと展開して収集つかなくなってしまう。多分、こうして彼を抱いたまま、一晩でも色々なことに考えを巡らせることが出来るだろう。愛情を込めて「貧相」と言える彼の体も、「卑屈」と言ってしまえる彼の考え方も、何もかもが榎木津にとっては他には替え難い、唯一無二の自分の魂のような存在なのだ。
もっと自分に全てを曝け出して欲しい。何でも甘えて欲しい。自分以外の人間が決して知り得ない、彼の本当の姿を見せて欲しい。
…自分はそうしているのに。
関口以外には、決して見せない顔を自分はいくつも持っている。だが、一方で自分の知らない関口の顔を、多分中禅寺は知っているのだろう。
榎木津は三度(みたび)苦笑した。
結局のところは、これか。
中禅寺が関口を密かに思っているという事実−彼を『見る』ことによってわかってしまった事実も、榎木津の…「嫉妬」、そう嫉妬の火に油を注いでいるのだろう。
2人の間にはそういう関係はない、というか、関口はそういう眼で自分が見られていることに決して気付いてないだろうし、決して彼をそういう眼でみることもないであろう、ということは榎木津にはわかっている。中禅寺は多分、関口にとっては「救い」なのだ。精神的にも肉体的にも、世俗の感情で侵し汚すことの出来ない「救い」の場なのではないだろうか。
そう思ったときに、榎木津は少しだけ中禅寺に同情した。が、あまりにも己が優位に立っているが如きその感情に、同時に彼にしては珍しく少し反省もした。
どちらかなのかもしれない。
この先、永遠に中禅寺は関口の「救い」の場になっていくのであろう。その「永遠」を羨やんでいくのか、それとも実際に彼を己の腕の中に手に入れた自分の−決して約束されることのない未来を、不安に怯えながら過ごしていくのか。
実際には選びようがないのだが。榎木津には後者の道しかないのだから。
この先ずっと、自分は中禅寺に嫉妬し続けるのだろう。関口が少しでも自分の方だけを見てくれることを望み続けるのだろう。
それでもいい。
榎木津はゆっくりと関口の背に廻した腕に力をこめた。関口が目覚めぬように。
自分が想っていれば、いい。いつまでも待っていればいい。
関口の想いが、自分に追いつくまで、いつまででも待てる自信はあった。
十何年も自分は密かに待っていたのだから。こうして抱き合い眠る日を−。
榎木津の腕の中で関口が少し身を震わせた。気付いて榎木津は自分の腕を緩めた。
「…海?」目覚めきらぬ声で、関口がそう呟きながら榎木津の胸に無意識に頭を寄せる。
まだラジオは点け放したままだった。それに波の音を聞いたのだろう。
「今日、海に行こうか」榎木津は関口にそう小さな声で囁いてみた。
「…海かぁ」関口は榎木津の胸の中でそう言いうと、本当に安心しきった顔で微笑んだ。
その表情がとても幸せそうに見えたのが嬉しくて、榎木津はまたゆっくりと優しく、関口を抱きしめる腕に力を込めた。
一日が動き出すにはまだ少しだけ間があるのを感じさせる仄白い空気が、彼らの寝室を優しく包んでいた。
<終>