遠くで砲声が聞こえる。
時折紅く空に閃光が光る。背の高い叢のなか、関口はじっと息を殺して身を潜めていた。
ここは南洋の島。学徒出陣で小隊の隊長として送りこまれてから2週間が過ぎた。なんとか部下の名前と人柄を把握し隊としての統率もとれてきたところであったが、今夜、上部からの指令で敵陣近くへと隊を移動することになり、この島内に不案内な関口は一人隊から逸れてしまったのであった。
今ごろ皆は自分を探しているだろうか−3つの小隊が集まっての移動であったから、指揮は他の隊長が補ってはくれるだろう。時間通りに指示された場所へ移動することが最優先されるであろうから、来たばかりの自分のことなど省みる者などいないに違いない。自力で指定の場所へ向かう以外、自分自身も生きる道はないのである。
それにしても、一体ここはどこなのだろうか…。暗闇が関口から方向感覚を奪う。が、夜が明けてしまえばより敵に見つけられやすくなり身の危険はより迫る。
どちらに進もうか、と思案していた関口は、意外に近いところで草を踏みしだく足音を聞き、一層身を低くし息を殺した。敵の視察だろうか、はたまた島に住む夜行性の獣か−関口は眼だけ動かして周囲を伺う。と、左前方に2人組の人影を見つけた。銃を手にした彼らは敵らしい。こちらへは来ないでくれ−関口の祈りも空しく、彼らは何か小声で話しながらぶらぶらと関口の隠れている方へと近づいてきた。
関口の鼓動が上がる。見つかれば殺されるのか、はたまた捕虜として連行されるのか−どちらにしろ生きる道は残されていないに違いない。人影はどんどん近づいてくる。自分の心臓の音が敵の耳にも届くのではないかと思うくらいにやけに大きく聞こえ、からからに乾いた喉を湿らすために唾を飲み下したいのに、それすら思うようには出来ず、関口は生きた心地のしないまま、ただただ己に降りかかった危機が過ぎ去るのをじっと待った。
と、敵の一人が何かに気付いたように立ち止まる。別の一人に声をかけると、二人して銃を構えたまま、関口の方へと近づいてくる。
気付かれたのか?−関口も銃身を握り締めた。2人の足音が迫る。がさり、がさりと叢を掻き分ける音がする。
もうだめだ−関口が震える指を引き金へとかけたそのとき
どおおん、と前方でまた砲声が聞こえ、真っ赤な閃光が空に走った。意外に近いところで聞こえたその音に、敵2人は驚いて振り向き、様子を伺っている。
再び砲声が響いた。2人は数こと言葉を交わすと、足早に砲声のした方へと引き返して行く。自分たちの基地を攻撃されたと思ったらしい。
その姿を見送り、関口はその場で蹲りながら大きく息を吐いた。
…助かった。
銃身を握り締めていた指が硬直してしまって銃から手が離れない。再び迫り来るであろう危険を避けるために、何とか指令を受けた場所まで辿りつかなければならないにどうしても足が動かなかった。
思えばこの南洋の地についてから、初めて晒された死と隣合せの危機である。こんなことではいけないと、気ばかり焦るがどうしても身体は動かない。また関口の前方で閃光が光り、空を紅く染めた。あの閃光を目指して別の敵が再びここを通るかも知れない。次第に夜も明けてくるだろう。そう考えるとますます関口の足は竦み、その場を離れることが出来なくなってきてしまったそのとき−
関口の目の前を、一匹の白い蝶の姿が過った。え?と関口はその蝶を眼で追う。
月明かりも差さない暗闇の中、ひらひらと蝶は白い光を発しながら関口の後方へと飛び去ってゆく。関口は思わず体を起こし、その姿を追った。
自分が歩いているということに気付いたのは、叢を脱し、深い樹林の中へと入ってからだった。見覚えのある場所へと戻ってきた。自分はこの辺りで仲間と逸れたのではなかったか。
蝶の姿は既にない。幻を見たのだろうか…関口がぼんやりとそう思いながら更に足を進めようとしたそのとき、強い力で関口は腕を掴まれ、その方へと倒れこみそうになった。
心臓が止まりそうなほど驚き、愈々駄目か、と恐怖を押さえてその人物を見上げた関口の眼に映ったのは
「一体何処をうろうろしてやがったんだ、隊長」怒りと安堵を含んだ低い声。
「…木場…」配属から何かと関口の世話を焼いてくれていた部下の木場であった。探しに来てくれたのか−安堵のあまり、再び膝に力が入らなくなる関口が倒れこみそうになるのを
「しっかりしろよ、隊長」と木場はその背を叩いてしゃんとさせ、
「見つかってよかった…」と小さく笑った。
「みんなは?」漸く普通の声がでるようになり、関口が何より先に部下の安否を気遣うと、木場は少し呆れたような顔をして
「とっくの昔に到着して、あんたの帰りを待っている」と言うと、
「別の隊が敵陣を攻撃しているらしい。この隙に急ごう」と関口を促した。
足早に目的地へと急ぎながら、関口は自分をここへと導いてくれた蝶のことを考えていた。
だいたいこんな南洋の地に日本で見るようなあんな白い蝶などいるのだろうか。関口はそれを木場に聞いてみようかと思ったが、馬鹿馬鹿しいと一蹴されそうな気がして口を噤んだ。自分を助けてくれたあの蝶は、ただの幻影だったのか、それとも何かの化身だったのか、はたまた単なる偶然が生み出した現象か…無言で歩く関口を木場はちらちらと時折振り返って気にしていたが、ふと前に眼をやると、
「見ろよ。夜が明けるぜ」と関口に笑いかけた。
関口も顔をあげ、目の前の白み始めた空に眼をやる。次第に朝陽がその顔を覗かせ始め、その陽の光が少し紫がかった空に放射線状に延びてゆく。段々と空が明るくなり、その光が周囲に溶け込んでしまうまでの時間はほんの一瞬であったけれども、関口はその昇る朝陽に、何かの答えを得たような気がした。
「陽が昇り切る前に急ごう」促す木場に、関口は
「今日は何日になるのかな」とふと思いついて問いかけた。
木場は日付を即答すると、それがどうかしたかい、と尋ねた気である。
「そうか…」関口はその日付を心の中で反芻していた。
決して忘れることの出来ない、いとしい日付。
助けてくれたのは、彼だったのかもしれない。何しろ彼は普段から自分を神と豪語しているくらいだから。
昇りゆく朝日に向かい、関口は小さく呟いた。
誕生日、おめでとう。榎さん。
これからもどこにいても今日のように自分を死から守ってくれ。再びあなたに出会い抱き合えるそのときまで…
関口の目の前を、再び幻の白い蝶がよぎった。愛しい人への想いへとむかって−
* * *
「榎さん、榎さん、起きてくれ」
寝台の中、煩そうに背を向ける榎木津を、関口は思いきり揺り起こした。
「…煩いぞ、サル…」なかなか目覚めず邪険にその手を振り払おうとする榎木津の手を
「起きてくれよ。もうすぐ陽が昇るよ」と関口は負けずに引っ張り、身体を起こそうとする。
榎木津は渋々といった感でようやっと起きあがると、
「こんなに早い時間からどうした…」と愛しい恋人をその手に抱こうとした。
その手をすり抜け、関口は窓辺に走ると、一気にカーテンを開き、
「ほら、もうすぐ陽が昇る」と、白みかけた神田の空を指差す。
榎木津は敷布を腰に巻くと、関口に習って窓辺へと立った。確かに低い建物の間から、朝陽が少しずつ昇り来るのが見える。
昨日から関口は榎木津の事務所兼自宅へと泊まりに来ている。夜遅くまで寝台の上で互いの身体を求め合い、明け方近くに疲れ果てて眠り込んでしまったいうのに−
榎木津がそう思いながら隣の関口を見やると、その太陽が昇りきる様子を黙ってじっと見つめている。その顔を昇る朝日がゆっくりと金色に染め上げて行く。
榎木津はそんな関口の頬に手をやり、自分の方を向かせ、問い掛けた。
「どうした?」
関口はにっこりと光を浴びながら微笑むと
「誕生日、おめでとう。榎さん。」と自ら口唇を、榎木津のそれに合わせた。
「…そうか。僕の誕生日か」
毎年、榎木津の誕生日には、関口は共に昇る朝陽を見ようと前日から泊まりに来るのであった。
どうしてそんなことを、と以前聞いたことがあったが、関口は笑って答えなかった。
そうしてもう何年がたったのだろう。
毎年、自分のことだというのに忘れていて同じことを繰り返しているのだけれど、思い出した瞬間にまた来年もこうして関口と肩を並べて昇る朝陽を見ていたい、と榎木津は願うのであった。
その理由は決して愛しい恋人からは、明かされることはないのだけれども…
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